記憶の水脈をたどるノートについて
「まちはみんなのミュージアムだより」 vol.9より
呉夏枝
pen友プロジェクトは、日本にすむ外国にルーツをもつ人との出会いを期待してはじめたプロジェクトです。まずイメージをしたのは、親しい間柄というより、互いに文化的背景の違う人たちが、海を越えて文通でそれぞれの理解を深めて結ばれる交友関係、いわゆるペンフレンドのようなコミュニケーションのあり方でした。本格的に活動を始動したのは今年の2月頃で、いろいろな方の紹介で、日本で暮らす、タイ、香港、中国、日系でペルーから来られた4名の女性が参加してくださることになり、文通がはじまりました。ちょうどその頃と、コロナウィルスが世界中にひろがった時期が重なります。
現在、わたしはオーストラリア在住で、この状況下でpen友のみなさんに送った手紙が届くのに2ヶ月かかりました。その間にメールでのやりとりもありましたが、時間が停滞したかのような感覚にいて、いつもよりもコミュニケーションをとるのに時間が必要で、ゆっくりとしたやりとりを行なっていました。毎日、コンピューターを前に日本とオーストラリアのニュースをチェックする日々を過ごす中で、インターネット上でさまざまなコンテンツが充実していくことの便利さを実感する一方、pen友さんへの手紙を手書きしたときに、紙を触り、ペンを持ち、文字を書くことで満たされた感覚がありました。また、返信として、手紙を書くことが―自粛生活を過ごす中での再生のチャンスだと感じていると−添えられた手紙をうけとったとき、わたしの停滞していた時間が再び緩やかに動きだすように感じ、手紙を書くことがこのような可能性を含んでいるのだと思いました。
このような時間を過ごすなかで考えたアイディアが、交換日記のような、ノートを回覧して作品を共有する方法でした。手にとり、ページをめくり、読み、想像し、書き込んでもらう、そのような方法で、この状況下で作品を届けることも可能ではないかと考えました。
pen友プロジェクトでは、pen友のみなさんとの手紙のやりとりをphase.1、そしてこれからphase.2「おばあさんのくらし」記憶の水脈とたどる−として、ノートを回覧する活動をはじめます。ノートの構成はページをめくると、pen友のみなさんが書いた「おばあさんのくらし」にまつわる記憶についての手紙が掲載されています。別のページには、「水脈の風景」として、pen友のそれぞれの方の手紙を読んで想像した風景を、わたしがこれまでに見てきた風景の写真などを使ってコラージュし、サイアノタイプ/青写真の技法をもちいて表現した作品を掲載しています。これらのページの続きに、ノートを受け取った方がご自身のおばあさんにまつわる記憶について綴ってもらい、ノートが回覧します。
これまで制作した作品に、済州島から大阪へと移住した祖母の記憶をめぐる作品があります。この作品の背景には祖母についての記憶をめぐることが、いつしかわたしの皮膚となるという感覚でした。ノートのはじめに掲載された4名のpen友のみなさんのおばあさんにまつわる物語は、それぞれのルーツ、独自の風景を描き出しています。その風景にふれたとき、わたしのなかで、あらたな記憶が生成されました。「おばあさんのくらし」にまつわる記憶をめぐることは、自己を確認することであり、また、他者のその物語にふれることは、それと共につくる現在、未来を想像/創造する糧となります。
日本にもたくさんの外国からの移民が暮らしています。pen友のみなさんが共有してくださったおばあさんにまつわる記憶は、それぞれのすごしてきた時間や空間を親密に想像するきっかけを与えてくれます。そして、このノートが、会ったことのない人の記憶に出会う場となり、それぞれの記憶を遠くの方でつなぎ、―わたしたちの原風景―として、それぞれのイマジネーションによって実現する仮想の風景を浮かびあがらせる場となることを願っています。
越境/pen友プロジェクト
「おばあさんのくらし」記憶の水脈をたどる展開催によせて
「まちはみんなのミュージアムだより」vol.09より
宮下美穂(NPO法人アートフルアクション)
わかりえないもの、触れえないもの、見えないもの、聞こえないものではあるけれど、ある種の出来事は、長い時間をかけて、あるいは瞬時に複雑に影響しあい、私たちの暮らし、社会、世界を地層深く大きく揺さぶります。災害であったり、社会的な事件であったり、身近な人の喪失だったりと、その原因や理由は様々ですが、私たちはその出来事の前に否応なしに立ち止まらざるをえなくなります。今日のコロナ禍は、それを象徴しているかもしれません。事はウイルスの現出を発端とするものではありますが、その出来事に対応する社会や私たちの暮らしのありようの脆弱さ、多様さがむしろ事態をわかりにくくし、解決を困難にし、対応を複雑にさせているように思えます。また、移民や難民の映像、画像を目にするとき、自分の無力さと世界史的な地政学の理解困難さの前に言葉を失うという経験を誰しもが持つでしょう。
この、私たちの前に、あるいは自分自身の中にある見えないもの、わかりえないもの、に、どのように触れ、紐解き、少しでも理解の端緒を作り出し、自分自身と出来事の関係を創造的に転換していくことができるのでしょう? 私は、そこには、厳然たる理解の主体である「自分」がいる、というより、理解困難を前にして、思索を続けること=変わり続けること、変わり続けながら寄り添うこと=我が身を呈して、親密に相手を、出来事を想像するという行為がありえるのではないかと思います。
越境という言葉は、明確なボーダーがあって、それを「えいっ」と、越えることのように聞こえます。けれども、このプロジェクトを通じて積み上がってきたのは、理解できるように思えること、思えないことのはざま、は、「私自身がその立ち位置や眼差しを変えることで、その相が変わっていくのではないか」ということです。私たちは呉夏枝さんを招くことで、単にボーダーを際立たせるのではなく、そこにある様々なひだを丁寧に辿ること、地層深くにつながりあう水脈の見え隠れを意識するプロジェクトを続けてきました。
皆で見た映画の中に、青山真治の『ユリイカ』があります。映画にはバスジャックを同時に体験した幼い兄妹に寄り添うバスの運転手が登場します。この、バスの運転手が、なぜ、兄妹に寄り添いえたかを考える中で、それはバスの運転手もある種の痛みを抱えているからではないか、という意見が出ました。また、李静和さんの『つぶやきの政治思想』に、ハルモニの体験をめぐって、同じような痛みを抱えていない私などに、痛みはわかりえないという学生の話が出てきます。静和さんは、相手の痛みが大きいからわかりえないということではなく、自分の抱える痛みを通して、他者の痛みに出会うことの可能性(かなり割愛)を説きます。
揺れ動く境界は様々な貌をしています。本プロジェクトでは、テッサ・モーリス=スズキさんの「親密に想像する」というメッセージを傍に、市民も作品制作という方法で参加しています。主題を我こととするために、制作/作ろうとしてみるということが重要だという仮説によります。そして「おばあさん」の記憶をめぐることは、時と場所を超える想像の行為です。さらに「おばあさん」という言葉に表象される越境+親密な想像から触発された跳躍は、単に主題を理解するためだけの営為に止まりません。「制作/作ろうとしてみる」とは、世界と向き合うための技術、自分自身の経験に照らして知らないことに向き合い、未知のことへ朗らかに心と身体を向け、気づきを重ねていくのか、という探究ともなっていきます。複数の相/層を丁寧に見据え、時にかき抱きながら、それぞれの水脈をめぐりながら、プロジェクトは進んでいます。
<越境/pen友プロジェクト運営メンバー>
野澤佐知子・森山晴香・田制可奈子・福島瑞葉
呉夏枝・宮下美穂(アートフル・アクションデイレクター)
<読書会資料>(抜粋)
- 小野和子『あいたくて ききたくて 旅にでる』PAMQUAKES
- 川田文子『ハルモニの唄 在日女性の戦中・戦後』岩波書店
- 李静和『新編 つぶやきの政治思想』岩波書店
- ヴィーナ・ダス「言語と身体の痛みの表現におけるそれぞれのはたらき」『他者の苦しみへの責任』みすず書房
- 『サラエボ旅行案内』
- 【対話の可能性】物語りのかたちトークセッション1「物語る人」DVD(せんだいメディアテーク事業記録2015年度)出演:野家啓一(哲学者)×小野和子(民話採訪者)
- 青山真治『ユリイカ』DVD
『越境/越えようとすることで見える界の相をめぐって
+pen友プロジェクト-わたしたちの原風景をえがくために』
制作: 特定非営利活動法人アートフル・アクション
発行:2020/3/25
発行者:公益財団法人東京都歴史文化財団アーツカウンシル東京